Gsan の 生い立ち
もうすぐ70歳になります。70年も生きるといろいろな経験をします。愉快な思い出もあれば、不愉快な思いもしました。
このブログでは、そういったさまざまの思い出の詰まった私のポケットから、つれづれなるままに、日暮らしPCに向いて、心にうつりゆくよしなしごとを、そこはかとなく意地悪く書きとめようと思います。
ただ、私のポケットは底が破れていたみたいで、あちこち記憶が途切れており、あいまいな部分があることをご了解ください。
(文中、意味不明の単語が出てきたらググって下さい。)
戦後75年間、日本は戦争をすることなく、ひたすら経済発展をしてきました。このことは、私ら終戦後間もなく生まれ育った世代の者にとって非常にラッキーでした。
終戦直後の何もなかった時代から、モノや情報であふれかえっている現代までの変化を目まぐるしく楽しませていただいたからです。
ブログ1回目は自己紹介を兼ねて私の人生70年間をザックリと振り返ってみます。
- 1)1950年代:昭和25年~34年(0歳~8歳)
- 2) 1960年代:昭和35年~44年(9歳~18歳)
- 3) 1970年代:昭和45年~54年(19歳~28歳)
- 4) 1980年代:昭和55年~64年(29歳~38歳)
- 5) 1990年代:平成2年~11年(39歳~48歳)
- 6) 2000年代:平成12年~21年(49歳~58歳)
- 7) 2010年代:平成22年~平成31年(令和1年)(59歳~68歳)
1)1950年代:昭和25年~34年(0歳~8歳)
佐世保は戦時中、戦艦「武蔵」の建造、空母「赤城」「加賀」の改装工事等があり軍港として栄えましたが、終戦直前の1945年6月アメリカ軍による大規模空襲を受け、町は焼け野が原となりました。
私の生家にも焼夷弾(しょういだん)3発が落とされましたが、祖母が気丈にも消し止めたおかげで残りました。
私の記憶では、天井に3か所の穴があり柱の1本は焼け焦げた跡が黒光りしていました。
物心ついたころには、周りは米軍の住宅が立ち並んでいました。
母は商才にたけていたのか、借金をしてまで隣地の畑に外人用住宅を建てて米軍将校に貸し付け、その建築費用をわずか2年で取り戻したそうです。
当時は、1$360円の時代だったとはいえ、随分の暴利だったようです。
その後、私が高校を卒業するまでお隣さんはずっと米軍人でした。
父は、米軍基地に通訳として勤務しており、基地内のカミソリー( commissary:免税店 )で食料品等を手に入れることができましたので、周りの日本人のご家庭よりもずいぶんリッチな食生活であったと思います。
キャンベルのスープが我が家のごちそうでした。
前述の祖母は亡くなる直前に「コカコーラが飲みたい」と言い出したので、父がカミソリーで探したところ、コカは品切れで代わりにペプシを購入、ばれないようコップに移し替えて飲ませたところ、「これはペプシじゃない」と見抜いたそうです。
後にことのいきさつを母から聞き、「うちの婆ちゃんスゲー」と妙に感心したものです。
キャンベルもコカコーラもペプシコーラも当時はまだ国内では販売されていませんでした。
ちなみに、我が家の食卓の皿の裏には、オキュパイド・ジャパン( occupied Japan :占領下の日本 )と書かれていました。
- 1)1950年代:昭和25年~34年(0歳~8歳)
- 2) 1960年代:昭和35年~44年(9歳~18歳)
- 3) 1970年代:昭和45年~54年(19歳~28歳)
- 4) 1980年代:昭和55年~64年(29歳~38歳)
- 5) 1990年代:平成2年~11年(39歳~48歳)
- 6) 2000年代:平成12年~21年(49歳~58歳)
- 7) 2010年代:平成22年~平成31年(令和1年)(59歳~68歳)
2) 1960年代:昭和35年~44年(9歳~18歳)
1963年11月23日(土)は、勤労感謝の日で学校はお休み、私は朝から近所の床屋さんへ行きました。
店の雰囲気が何だかざわついていると感じつつも案内されるままいすに座り、流れてくるラジオからの声をなんとなく聞いて度肝を抜かれました。
小学5年生だった私にもことの重大さが分かり、「第3次世界大戦」が脳裏をよぎりました。それほど当時世界はきな臭かったのです。
きな臭かった世界を背景にスパイ映画が大はやり、007ジェームスボンド、ナポレオンソロ、電撃フリント、などが一世をふうびしました。
一方邦画では植木等の無責任男シリーズ、加山雄三の若大将シリーズ、渥美清のフーテンの寅さんシリーズなどがヒット、「きな臭いのは外国、国内は平和」という空気がそのころから漂っていました。
(2020年10月007のション・コネリーさんが亡くなりました。私には永遠のジェイムス・ボンドです。)
ビートルズが世界中で大ヒット、ヒッピー、ロングヘアが流行、国内ではエレキギターブームが沸き起こり、ベンチャーズのテケテケ・・・に若者は熱狂しました。
雑誌もいろいろと創刊され、ボーイズライフ、平凡パンチ、プレイボーイなどがいろいろな意味での教科書でした。特にべっぴんさんのグラビアには本当にお世話になりました。起立!・礼!
日本は、池田勇人(イケハヤではない)総理による「所得倍増計画」の真最中。高度成長の始まりです。
高度成長期は誰が経営者であっても企業には利益が出ました。造ったら売れる時代、需要が拡大し供給が追い付かない結果です。
今のように経営学やマーケティング論などはまったく不用で、日本中がどんどん経済的に豊かになっていきました。
新幹線が開通し、大都市では高速道路が縦横に走り交通網が張り廻られました。
東京オリンピック(1964年)が開催されたのは、私が中学1年のときです。
テレビにくぎ付けで競技に見入ったものです。
「チュニジアのガムージー」と言ってもだれも覚えていないでしょうが、「チュニジアのガムージー」テレビから聞こえてくるこの音声が私にはなんだか国際的な響きに聞こえワクワクしたものです。
(ガムージーさんは確か陸上競技の選手だったと記憶しています。)
男子100m走では、アメリカのボブヘイズが人類で初めて「10秒の壁」を破る9秒9をマークしました。
当時、アメリカが世界で一番断トツ豊かな国でした。
大統領は若くてメッチャかっこいい、ハリウッドにはトニィーカーティス、ナタリーウッド等の美男美女がいて、世界中がアメリカにあこがれていたと思います。
ケネディが日本の若者に与えた影響としてアイビー・ルックがあります。
日本男子がおしゃれに興味を持ったのです。
アイビーといえばVAN。
穂積和夫氏のイラストもおしゃれで、それまでの日本にはなかった新しい感覚のファッション文化でした。
それは、当時遥か彼方の国アメリカを象徴する、自由で明るく清潔でおしゃれなライフスタイルを意味しました。
ところがそのアイビーの本家本元であるブルックスブラザーズがなんと2020年7月経営破たんしました。
私にとってブルックスはハレの日に着るものでしたのでショックです。
我が家のクローゼットにはブルックスのスーツ、ジャケットが2~3着今もぶら下がっています。
人生最大の悲劇は戦争に遭遇することでしょう。
幸いにも私自身、直接は戦争の経験はありませんが、私が育った基地の町、佐世保はベトナム戦争時、米軍の後方支援基地として非常に景気が良かったことを覚えています。
夜ごと外人バー街は米軍のヨッパライたちでごったがえし、M.P. ( Military Police:軍警察 )が巡回しているのが日常でした。
友人の家が外人バーを経営していましたので、洋モクが手に入りやすく、ラッキーストライク、マールボロなど、高校の頃隠れて吸ったものです。
基地の街といえば、高1のときエンプラ闘争(1968年)がありました。
海軍橋をはさんで、米軍基地側は機動隊、市街地側は全学連が陣取りにらみ合いです。
私の高校からも授業をさぼって社会見学に来たやつら(見学連)がかなりいたと思います。
私もその内の一人でした。
上空にはヘリが5~6機爆音を轟かせ飛んでいて辺りは騒然としていました。
やがて投石が始まり、火炎瓶、放水、催涙弾が飛び交い、われら田舎の高校生たちは興奮のるつぼです。
これらの映像がJNNニュースコープ(田英夫)で全国放映されました。
「地元の高校生もデモに参加!」と報道されましたが、これは積極的にデモに参加しようとしたのではありません。ぼーっとしていたら前面に押し出されただけの現象でした。
田舎者にとって自分たちが映っている映像を全国の人が見ていると思うとこれまた興奮です。翌日からは現場に来なかった同級生たちに鼻息荒く自慢したものです。
反戦=正義、ラブ・イズ・ピースの風潮でした。
- 1)1950年代:昭和25年~34年(0歳~8歳)
- 2) 1960年代:昭和35年~44年(9歳~18歳)
- 3) 1970年代:昭和45年~54年(19歳~28歳)
- 4) 1980年代:昭和55年~64年(29歳~38歳)
- 5) 1990年代:平成2年~11年(39歳~48歳)
- 6) 2000年代:平成12年~21年(49歳~58歳)
- 7) 2010年代:平成22年~平成31年(令和1年)(59歳~68歳)
3) 1970年代:昭和45年~54年(19歳~28歳)
浪人した後、なんとか大学へ入り、憧れであった信州松本にやって来ました。松本城のお堀に面した家具屋さんの倉庫の2階部屋を借りました。
当時は今みたいなおしゃれなマンションなどありません。引っ越しは大学が貸し出すリアカーで行いました。
学費は年1万2千円!つまり、月1千円です。バイトをしまくりましたので、お金に困った記憶はありません。
上高地、美ヶ原、霧ケ峰には毎週のように行きました。美ヶ原から遠くに富士山が見えたのにはびっくりしました。
サンスイのオーディオをそろえブラスロックを聴き、スキー用具を一式そろえ、中古のホンダN360を6万円で買い中央フリーウェイを走りました。
楽しい学生生活でしたが、長くは続きません。
1973年オイルショックです。原油価格が4倍ほどに高騰したのです。
原油が高騰すると、なぜだか不思議、砂糖とトイレットペーパーが市場から突然消えました。
ごめんなさい!犯人の一人は私です。
ある日、某スーパーのバイトで指定された集合場所へ行くと、ホロのかぶせてあるトラックに乗せられました。
行き先も告げられず人里離れた松本市郊外の山間部に連れて行かれ、謎の建屋に大量の砂糖を運び込む作業をしたことがあります。
特別バイト代が良かった記憶はありません。
大学を卒業し、不動産鑑定士の事務所に就職しました。不動産鑑定といっても公的な仕事がほとんどであるため、多くの方にはなじみが薄いかもしれません。
その仕事の一部を紹介しますと、「日本で一番土地の値段が高いのは銀座4丁目の・・・」なんてニュースを時折見られることがあると思います。
このときの「土地の価格を公正に評価」しているのが不動産鑑定士です。
他には、民間所有の土地が国道や県道などの道路拡幅のため国や県に収用される場合、その土地の価格を評価します。
ここでの貴重な体験として国有地の払い下げ(収用の逆)に係る土地価格の鑑定評価がありました。
私が担当したのは、某国立病院敷地内に地方自治体運営の保育園が既存していて、その保育園が位置する土地を国から地方自治体へ払い下げる案件です。
このときの払い下げられる土地を評価するのです。
評価価格は近隣地域の相場価格でそれなりに決まりますが、その価格で実際に現金のやりとりがあり、土地が譲渡されるのではありません。
評価価格はあくまでも書類上の数値にすぎません。
国有地は公共性のある場合にのみ払い下げられ、儲けることが目的ではありません。
具体的には知りませんが、払い下げ価格とほぼ同額の補助金が別に何らかの形で国から地方自治体へ支給され差し引きチャラになる仕組みだそうです。
そもそも国有地を売って儲けようという考えは国にはありません。
もしあるのだとするならば、『日銀に国有地を1,000兆円で払い下げ、日銀が保有している国債で1,000兆円支払わせる』のはどうでしょうか。
一発で財政再建(バランスシートの健全化)となります。(ジーさんのたわごとですので気にしないでください。)
事情があって事務所を辞め、学習塾を開きました。
当時の小・中学生は団塊の世代ジュニアで人口が膨らんでいて塾はほどほど繁盛しました。
元来、小・中学生のガキは大嫌いだったのですが、自分の教え子はかわいいものです。毎回、自宅教室は生徒たちの熱気で活気あふれ、私も気合が入っていました。
教室の前の駐車場に朝日新聞の若手記者の車が止めてありました。セリカ1600GTです。
マニアならずともこの車に衝撃を受けた方は多かったでしょう。一流の人はおしゃれな車を選ぶものだと納得しました。
父は「朝日新聞は一流紙」だと信じていましたので我が家ではずっと朝日を購読していました。
朝日に書いてあることは全てが真実だと思っていました。
本多勝一の本を読みあさり、筑紫哲也はかっこいい、朝日の記者はセリカ1600GTに乗っている、インテリは朝日ジャーナルを読むものだと、私の知識のかなりの部分は朝日新聞に影響を受けていました。
- 1)1950年代:昭和25年~34年(0歳~8歳)
- 2) 1960年代:昭和35年~44年(9歳~18歳)
- 3) 1970年代:昭和45年~54年(19歳~28歳)
- 4) 1980年代:昭和55年~64年(29歳~38歳)
- 5) 1990年代:平成2年~11年(39歳~48歳)
- 6) 2000年代:平成12年~21年(49歳~58歳)
- 7) 2010年代:平成22年~平成31年(令和1年)(59歳~68歳)
4) 1980年代:昭和55年~64年(29歳~38歳)
愉快な思い出としては、何といっても「子育て」につきます。
幸いにも3人の子供に恵まれ、長男が生まれてから一番下の娘が大学に入るまでの25年間十分すぎるほど楽しませてもらいました。
20代後半までの独身の間、ほとんど毎日、外で飲み歩いていましたが、31歳で結婚し長男が生まれてからはまったく外へ飲みに出なくなりました。
お姉さんのお尻よりも息子のお尻がかわいかったのです。
子供たちをお風呂に入れるのは私の担当でした。
3人の子供は下に行くほどキャラが際立ち、それなりにヤンチャなことをしてくれました。親子で職員室、校長室に呼び出され説教されたことも2度、3度ありました。
仕事は引き続き学習塾を経営、おもに英語と数学を小・中学生に教えていました。
教育現場に立ったことのある者の意見として数学に関して一言あります。英語に関してもありますが、それは別の機会に譲るとしてここでは数学教育について述べます。
結論は、「重要なことは『数学的論理の流れ』であって、計算技術ではない。」ということです。
数学はその名前から「数(かず)の学問」だと思われて計算技術そのものが数学だと思っている人が多いようです。
数学では論理の展開上、計算技術も必要となりますが、もっと重要なことは、「発想・思考する論理の流れ」です。
これを小学・中学生のころからある程度習得させることが大事であると思います。
数学の証明は、「公理」から始めて三段論法などで推論を積み重ねることでなされます。
このとき、そもそもの前提(公理)が正しいこと、論理の飛躍がないこと、で三段論法は成立します。
中学2年で学習する「三角形の合同の証明」はその基本形です。
この論理的な考え方の流れを習得することがその後の人生において影響してきます。
2020年10月、菅義偉首相は日本学術会議が推薦した105人のうち、6人を任命拒否しました。
このことに対し、「学問の自由を侵害している」と一部の学者、野党、メディアが騒いでいますが、これは論理の飛躍(任命拒否⇒学問の自由の侵害)です。
また、「学者の意見は正しい」という思い込み自体、前提としてそもそも間違っています。
対立する議論においては感情よりも論理的に話を進めることで相手を納得させることができるのです。
私の印象として、数学的論理(ロジック)で思考できない大学教授がいわゆる文科系の学者たちに多々見受けられます。
学者は自分の専門分野においてはある程度詳しいものの、専門分野以外では一般人と同様か、あるいはそれ以下のパーチクリンの方がむしろ多いようです。
そもそも理科系と文科系という分けかた自体が不可解です。
「経済学」は文科系の学問と思っている方々が多いと思いますが、経済学を理解するには数学の知識、特に微分の概念が必要不可欠です。
また分野に限らずあらゆる分析において統計の知識が必要となります。
理路整然とした論文を書くためにも数学的論理が要ります。
理科系・文科系の分け方にあまり意味はありません。
強いて分けるとしたら、『数学的論理思考が可能または不可能』で区分するべきでしょう。
数学は多くの学問のバックボーンとなります。にもかかわらず、線形代数(行列)が高校課程( 数C )から無くなっていることは非常に気がかりです。
円高不況(1985年~1986年)は我が家にとって直接痛手はなく、輸入物高級ブランドが安く手に入りむしろラッキーでした。
1万円以上したジョニクロが2千円程度になったのには驚きです。海外旅行にも安く行けます。
香港でお買い物、グアムで海水浴と長男をショイコで担いで遊びまわりました。
我が家のバブルは円高不況とともにすでに始まっていました。
我が家のバブル(1987年~1991年)の発端はNTT株2株に当選したのが始まりでした。
NTT株は購入後3日目に売却、100万円ほどの利益がありました。これにすっかり味をしめ、その後も株式投資で毎月2 ~ 30万円の不労所得がありました。
当時は日経平均株価がどんどん上昇していましたからたいていの人は儲けたはずです。是川銀蔵気取りのお父さんが全国にいっぱいいたと思います。
バブルが膨らんだ元凶の一つは銀行です。
借入金の返済時までには土地の値段は倍になっているからという理由で、時価1億円の土地を担保に2億円貸し出し、さらに土地の購入を促すという営業を平気でしたのです。
ゴルフ場の会員権募集があると、行員は募集用紙を持って開業医などの小金持ちのもとへ走り、会員権の額の融資をして購入させる。
ゴルフをすることが目的ではなく会員権の上昇、キャピタルゲインが目的でした。
「日傘は貸すが、雨傘は貸さない」と銀行員は威張っていました。
コツコツ働くやつはごくろうさん。踊る阿呆に、見る阿呆。同じ阿呆なら踊らにゃソンソン!!
海外ブランド物は「なんとなくクリスタル(田中康夫)」で学びました。
株で儲けたあぶく銭で、円高で安くなった海外高級ブランドを身につけ、あこがれの洋酒を飲み、すっかりクリスタルな気分になったものです。
500万円で買ったゴルフ場の会員権はそこでゴルフをする間もなくあっという間に1000万円に値上がりし、ワンレンボディコンのお姉さんたちは踊りまくり、東京23区の土地の価格でアメリカ合衆国全土が購入できるとまで言われました。
ジャパンアズナンバーワンの時代、’80年代後半、日本中がのぼせ上っていました。
- 1)1950年代:昭和25年~34年(0歳~8歳)
- 2) 1960年代:昭和35年~44年(9歳~18歳)
- 3) 1970年代:昭和45年~54年(19歳~28歳)
- 4) 1980年代:昭和55年~64年(29歳~38歳)
- 5) 1990年代:平成2年~11年(39歳~48歳)
- 6) 2000年代:平成12年~21年(49歳~58歳)
- 7) 2010年代:平成22年~平成31年(令和1年)(59歳~68歳)
5) 1990年代:平成2年~11年(39歳~48歳)
1990年3月、日銀の「総量規制」で一気に土地の取引価格に急ブレーキがかかりました。バブル崩壊です。
’90年代初めは一部の業界ではバブルの余韻がまだ続いていましたが、土地の価格は急落、銀行は土地を担保の過剰融資により不良債権を大量に抱え込みました。
バブル崩壊後、不良債権処理に苦悩した銀行・証券会社などの大手金融機関が次々と経営破綻しました。のちに、’90年代は「失われた10年」と呼ばれるようになります。
都市銀行はBIS規制である自己資本比率5%以上を維持するため、税効果会計という帳尻合わせの会計処理を利用しました。
資産性のほとんどない「繰延税金資産」というインチキ資産をでっちあげ、自己資本比率を5%以上に維持しようという魂胆です。
これは「日本の会計制度を国際会計基準というアングロサクソンの基準に合わせるため」という名目で’90年代次々と発表された、いわゆる会計ビッグバンと呼ばれるものを都合よく利用したものです。
私が通った同じ幼稚園に長男、次男も入園しました。幼稚園までの道のりはそれほど遠くなかったので幼稚園バスは利用せず、歩いて息子たちと一緒に通いました。
当時、塾の経営が下火となっていましたので、これからどうしようかと毎朝歩きながら考えあぐねておりました。
ある日ふと気づいたのですが、次男には町内に同級生がいないのです。調べてみたら近隣町内にも同級生がいません。我が家の周りの町内、つまり市中心部は少子高齢化が進み子供が極端に少ないのです。
周りはお年寄りばかり、若夫婦が建てる新築は郊外、旧市街地は建築基準法で家が建てにくくなっていたのです。
建築基準法は事後法です。我が家の周辺は字図(あざず)と実態がかけ離れていました。
そこで法務局に相談に行ったところ、「あなたたちが勝手に家を建てたからこうなったのですよ」と責任転嫁、高圧的態度、意味不明の説明であっけにとられるほど感じが悪かったことを鮮明に覚えています。
当時の法務局は官尊民卑の権化でした。
話が横道にそれましたが、我が家の周辺に子供がいないことには塾の経営は厳しいと判断し、塾をたたむことにしました、ついでにたばこも42歳で止めました。
実は長男が生まれた32歳の時から何度も止めようと試みたのですが結局10年かかったことになります。
諸般の事情により長崎市に転居することにしました。元来料理好きで、飲食店の経営にも興味を持っていましたので心機一転、男の料理で飲食業界へ突入することにしました。
知人の紹介で第三セクター方式(長崎市と民間企業との共同出資)のテナントビルのレストランコートにうどん屋、カレー屋の2店舗で入居することにしました。
第三セクターとは、官民一体となり「官の安定・民の活力」をうたい文句に事業を運営する方式で、当時全国あちらこちらに三セクビルが林立し、いわゆる「箱物行政」と呼ばれていました。
当該テナントビルは当初、「長崎の食卓文化館」としてイベント等の管理運営は三セクが行うものとして開業しました。
ところが、賑わったのは開業当初の2週間だけ、3カ月足らずで客足は遠のいてしまいました。原因は明白で、テナントが当初予定の半分程度しか入らず、ビル内はスカスカのがらんどうでした。
箱物行政に携わる人々は箱(ビル)が建設されるまでが事業であり、建設後のことは事業と考えていないようです。
三セクに出資した株主たちは建設時あるいはオープン時の事業に何らかの形で参加し出資額をすでに回収済で、建設後の株主としての権利には興味ありません。
また、三セクの経営陣たちも事業運営には関心が無く、テナントが埋まらなくても平気です。実は、行政(長崎市)も含めた株主と三セク経営陣との間にはコンサルタントと称する人物がいて、すべての責任はこのコンサルタントが一手に引き受けることになっていました。
不覚にも私は、「官の安定・民の活力」を信じていましたので、再三再四にわたり経営立て直しの提案を経営陣に出したところ、ウザイと思われたのか、ついには「T (私のこと)を始末しろ」と長崎市長・伊藤一長後援会の有力者から三セク専務に指令が出たそうです。
ビル建設6か月後コンサルタントは大金をつかみさっさとどこかへ消えました。
ここで学んだことは、「行政は利用するものであって、決して協力してはならない。」これは我が家の家訓となりました。
- 1)1950年代:昭和25年~34年(0歳~8歳)
- 2) 1960年代:昭和35年~44年(9歳~18歳)
- 3) 1970年代:昭和45年~54年(19歳~28歳)
- 4) 1980年代:昭和55年~64年(29歳~38歳)
- 5) 1990年代:平成2年~11年(39歳~48歳)
- 6) 2000年代:平成12年~21年(49歳~58歳)
- 7) 2010年代:平成22年~平成31年(令和1年)(59歳~68歳)
6) 2000年代:平成12年~21年(49歳~58歳)
ある日、自宅に長崎市の顧問弁護士から内容証明郵便が届きました。
内容は私が「三セクからの再三の請求にも関わらず家賃を支払っていないので早急に退去し、損害賠償金を支払うように」との要求でした。
家賃は契約にしたがい支払っていましたので、まさに寝耳に水のびっくりです。
ことの発端は、伊藤一長・長崎市長後援会の有力者から三セク専務に「T (私のこと)を始末しろ」とのお声がかかったことです。
三セク三セク事務所に電話したところ、「裁判になる可能性が高いので、直接お話しすることはできません。今後は弁護士を通してください。」とのことでした。
私も腹をくくり弁護士を探しましたが、行政が相手では引き受けてくれる弁護士は市内にはいませんでした。田舎の弁護士は行政関連の仕事が多いそうです。
調停開始となりました。
個人 vs 三セク「行政(長崎市)と企業(2つの地銀・その他)」との戦いの構図、個人に勝ち目はありません。
私の妻も含め周りは皆悲観的でした。他のテナントからは「一長さん(市長)に逆らって長崎で商売できると思っているの。」とまで言われました。
ところがどっこい、孤軍奮闘、調停の結果、判事は私の主張『三セクの債務不履行』を全面的に認め完勝!!
私が三セクに支出したお金はほぼ全額戻ってきました。
2020年現在、当該ビル「長崎の食卓文化館」はただの雑居ビルと化しています。
三セクとの調停の結果、ある程度のお金が手元に残りましたので、52歳でリタイア、思うところあって55歳から大学院で経営学を学びなおすことにしました。
55歳から61歳までの7年間で、会計学と経済学の修士課程を2つ、経営学で博士課程を修了しました。
『分け前に不満を持ったチンピラがボスを殺害したに過ぎない事件』です。
ところがマスコミは、「またも長崎で言論弾圧」と報道、あたかも長崎では言論弾圧が繰り返されているかのごとき報道、これは長崎市民にたいして大変失礼です。
確かに、本島、伊藤と2代続けて市長が銃撃を受ける事件が長崎市で起きました。しかし、この2つの事件は全く異質のものです。
本島等銃撃事件(1990年)は、本島市長が『天皇にも戦争責任があると発言したことがきっかけで起きた事件』です。
あたかも天皇が日本国民を戦争へ導いたかのような発言をキリスト教徒(本島市長)から言われたら、神道に限らず、キリスト教徒ではない日本人にとって非常に不愉快であることは当然です。
これは、本島市長が「言論の自由を過大解釈した発言」であり、私は「言論の自由には限度がある」と思っています。一般の日本人にとって皇室はタブー(taboo)です。
2020年10月フランス・パリ近郊で男性教師が殺害される事件がおきています。
この事件は、当該教師が『言論の自由を教える教材としてイスラムの預言者ムハンマドの風刺画を授業で生徒たちに示したことで起きた事件』です。
イスラム教では偶像崇拝が禁止されており、ムハンマドやアッラーの描写はムスリムにとって非常に侮辱的な行為と捉えられます。
「フランス人の言論の自由は独善的」で、自分たちの正義感を他民族・他宗教に押し付けていると私には感じられます。
他民族・他宗教の者が不愉快に思うことを認識しながらも強いて発現することがフランスでは言論の自由のようです。
もし仮に、virgin motherについて、異教徒が笑いながら「ばかげている」などの否定的な発言をした場合、キリスト教徒たるフランス人はどのように感じるのでしょうか。virgin motherをオチョクルのも言論の自由でしょうか。
宗教にはタブーがあります。キリスト教徒ではない多くの日本人が、virgin motherについてとやかく言わないのは、キリスト教徒への思いやり、忖度があるからです。いい意味での「忖度」という概念は尊重されるべきでしょう。
忖度は「言論の自由」以前の概念で、平和的に社会生活を営む上で必要不可欠と思います。
世の中言っていいことと悪いことがあります。「言論の自由」は大切ですが、相手への思いやりはもっと大切です。残念ながら本島市長にはそれがありませんでした。
ところで、朝日新聞、毎日新聞、NHKの「言論の自由」には「ねつ造記事」も含まれるのでしょうか。
自民党長崎県連の選挙資金集めは「長崎方式」とよばれ、公共事業の受注額に応じて献金額が一方的に決められ、大手ゼネコンに献金を迫るものです。
当時、長崎市内には大手ゼネコンの事務所がなかったため福岡まで押し掛けて行き恫喝、ヤミ献金を受け取っていた事件です。
つまり長崎県の船頭(金子源次郎)が福岡で土建屋(ゼネコン)にたかっていたのです。
当時ヤミ献金問題では、自民党県連の浅田五郎幹事長が公職選挙法違反で逮捕されています。
この時、一長さんもついでに逮捕されていれば殺されることもなかったでしょう。
自分には捜査の手が入らないと感じたのか、のこのこと選挙に出たところをズドンとやられたのです。
急きょ一長さんの娘婿が後継者として市長選に立候補しましたが落選しまた。弔い合戦で落選するとは、長崎市民にそれだけ嫌われていた証です。
落選会見で一長さんの娘さんが長崎市民を見下した発言をされていますが、その時の捨て台詞が全てを物語っています。『長崎市民にとって、伊藤一長はその程度の人間』でした。
2008年リーマンショックです。諸外国の中央銀行は通貨供給量を増やしましたが、我が白川日銀はなにもしませんでした。おかげで円高です。スコッチが飲めます。稼ぎの少ない我が家にとってデフレも大歓迎でした。
- 1)1950年代:昭和25年~34年(0歳~8歳)
- 2) 1960年代:昭和35年~44年(9歳~18歳)
- 3) 1970年代:昭和45年~54年(19歳~28歳)
- 4) 1980年代:昭和55年~64年(29歳~38歳)
- 5) 1990年代:平成2年~11年(39歳~48歳)
- 6) 2000年代:平成12年~21年(49歳~58歳)
- 7) 2010年代:平成22年~平成31年(令和1年)(59歳~68歳)
7) 2010年代:平成22年~平成31年(令和1年)(59歳~68歳)
59歳から61歳までの3年間で、経営学の博士課程を修了しました。
管理会計に経済学の分析手法を用い経営分析をしようというのが私の狙いでした。
具体的には、部門別原価計算(管理会計)の間接費配賦額を、産業連関分析(経済学)の際に用いるレオンチェフの方程式で算出し、間接費も含めた原価を経営意思決定(経営学)に役立てようという狙いでした。
行列式を使った論文、発表は学会などではほとんど質問はなく突っ込まれませんでしたが注目も浴びませんでした。
会計学についてザックリと解説しますと、会計学は大きく財務会計と管理会計に分けられます。
財務会計は制度会計とも呼ばれ、会社法、金融商品取引法、税法などの法律に基づいて実施される会計をいい、主に企業外部に公表されることを目的に貸借対照表・損益計算書・キャッシュフロー計算書などが作成されます。
これに対し管理会計は、企業の経営管理者たちに企業の内部状況、外部環境などの情報を提供します。
企業を成長させ、競争力のある企業にするにはどうしたらよいか?企業内部での検討、議論、報告の根拠となるデータを提供するのが管理会計です。
つまり、経営者の意思決定のための経営分析としてのツールが管理会計です。
外部に報告する必要はありません。むしろ管理会計情報は企業秘密です。内部資料としての情報ですから、法律や制度に従う必要はありません。まったくの私的会計です。
経営管理に役立つ情報であることが重要です。
また、売上に影響する事象、たとえば世界経済、政策の動向、地域の人口構成の変化なども考慮しつつ経営分析します。
そこで、管理会計で扱う数値は金額だけに限りません。
金額ももちろん重要ですが、その他に製品の大きさ、重量なども考慮に入れ、場合によっては天候、気温、人々の好みの変化などにも着目します。
管理会計は利益獲得が目的で将来に向けてのデータを提供することから、内部指向型、問題解決型、未来志向型などとよばれます。
中小の製造業において「どうも会計は軽んじられているのでは」と思うことがあります。
記帳代行をはじめ会計事務処理をすべて外注している企業すらあるようです。
企業にとって技術力は大切ですが、企業を維持存続発展させるには経営力が重要です。この経営力を支えるのが管理会計です。
技術力を誇りにするのは当然ですが、利益の出る製品を造ることが肝心です。
利益を出すにはどのように原価管理・経営分析をするべきか、これから成長しようとする中小企業経営者は管理会計をもっと活用すべきなのではと老婆心ながら感じます。
会計の話をしたついでに簿記について、以前より腑に落ちないことがありますのでここで一言述べます。それは工業簿記についてです。
簿記には商業簿記と工業簿記があります。
商業簿記は物品販売業において、工業簿記は製造業において用いられます。
私が腑に落ちないことは、「工業高校や、大学の工学部において、工業簿記が履修されていないことです。」
工業高校や大学の工学部の卒業生の多くは製造業に就くことが想定され、設計部門あるいは製造現場である工場に配属され、いずれは管理者となることでしょう。
工業簿記は製造過程におけるお金(費用)の流れを記録するもので、その結果として製品一個一個の原価がわかります。
お金の流れをつかむことで製品の原価が分かり、管理可能となることで利益が算出されます。
製造現場での原価管理は重要課題です。
そもそも原価は設計段階である程度の概算を算出しておくことが必要です。
したがって、設計であり製造現場であり、製造業に携わる者には工業簿記(原価計算)の知識はある程度必要であるはずなのに、工業高校、大学の工学部において教育されていないのが現状です。・・・なぜなのでしょうか?
今は、「造れば売れる時代」ではなく、「売れるものを造る時代」です。技術だけを誇る企業ほど、経営は悪化しています。
61歳で院を修了した後、引き続き研究生活を望んでいましたので、どこか大学に就職できないかと大学の講師募集に応募してみましたが夢はかないませんでした。
ポスドク問題です。私などよりはいろんな意味で深刻な30代、40代のポスドクの方々が大勢いらっしゃると聞きます。
博士課程を修了した者はベーシック・インカム支給で好きなだけ研究生活ができるようにならないでしょうか。
基礎研究の充実は国の懐の深さを物語ると思います。
65歳からは年金生活となりました。今は無職の ジーさん(Gsan) です。その無職のGsanですが昨今の世の中の風潮について憂えています。
そのひとつが、テレビで見かけ、非常に不愉快になった保険のCMです。
老夫婦の会話で「迷惑をかけたくないじゃない。」これがキーワードです。
「病気、入院、介護、葬儀」人生終末期に入ると誰しも頭をかすめることです。当然不安に感じます。
そこで、「保険に入っておけば、誰にも迷惑をかけないで済む」ということでしょう。
つまり「資産を持たない高齢者の病気、入院、介護、葬儀は周りの者に迷惑をかける。」ということのようです。
言い換えると「老後のために資産を蓄えておけ、無駄に子供にお金を使うな」ということでしょうか。
子供の教育には手間も暇もお金もかかります。子供にお金をかけた結果、自分たち夫婦の老後が哀れではみじめです。
そこで子供は最小の人数にとどめ、資産の蓄積に励む人生設計となるのでしょう。
仮に「教育にお金がかかるために少子化となる」のであるとすると、その解決策として「公的教育はすべて無料」としたらいかがでしょうか。ただし進級試験は厳しくする。
また、同一年齢同一内容の教育は止め、特に数学は、各人の能力次第で進級できるシステムとする。
これは競争ではなく、個人の能力に合った教育が最適であると思うからです。
小学校の四則計算がろくにできない子に中学に進学したのだから方程式を解かせるというのは酷です。
また、一次関数を理解している子には正比例・反比例を履修させるのでなく、二次関数、三次関数、微分とどんどん先に進めるやり方が個人の能力を引きのばせると思います。
平等に教育することは確かに平和ですが緊張感はありません。
今後のマクロ経済の動向も気がかりです。
コロナショック(2020年)が実体経済に及ぼす影響はリーマンショック(2008年)の比ではないと考えられます。
リーマンショックは一企業における金融不安の発生でしたが、コロナ禍では世界中の人・モノ・金の流れが止まりました。
必然的に経済は後退します。リセッションの危機です。
今後しばらくは就職難が続くでしょう。就職氷河期の再来です。
正規雇用でなければ結婚、育児は厳しくなります。
これは政権に非があるからではないので、菅首相を責めても仕方ないでしょう。
それよりも雇用の維持を図るにはどうすればよいか。
メディアも少しはアイデアを出したらと思います。
Gsanのアイデアです。
少子高齢化、コロナ禍の打開策として「大家族への復帰」を提言します。
戦前は大家族が多かったようです。
大家族の印象として「貧乏くさい」がよく言われます。
確かに先進国は裕福な核家族のイメージが強く、発展途上国は貧困で子供が多く大家族の印象です。
しかし、アメリカでも共和党支持者はファミリィを大事にしますし、イタリア南部も大家族が多いようです。
私の印象としては、農耕民族は大家族で、狩猟民族は核家族なのかなと思っています。
核家族に支えあう共同といった概念はなく、
自律⇒独立⇒孤立と進んでいくようです。
そんなに頑張らなくていいじゃないですか。
じいちゃん・ばぁちゃんにとうちゃん・かあちゃん、そしてたくさんの子供たちとワンコにニャンコ、金魚にめだか。
大家族はお互いに頼ることで安心感が生まれます。
子供の教育に手間も暇もかけられます。結婚もできますし、家族が一人や二人増えてもお互い様です。
親族の面倒を互いにみることは人として根源的責任であり、またそこには愛情があります。
次に気になることが、「左翼の弱体化」です。
世の中が右傾化したのではなく、既存の左翼勢力に対し国民の支持が低下している結果だと思います。
戦後これまでの左翼勢力が国賊であったこと(南京大虐殺、従軍慰安婦問題などの捏造)がつぎつぎと露呈されたことが原因と考えられます。
民主主義にとって左翼は必要です。
また、メディアは左翼であるべきです。政府の政策に対し別の見方を常に提示する必要があるからです。
しかし、「売国左翼は論外」です。「愛国左翼が必要」なのです。
残念ながら今の日本には「愛国左翼がいない」と思います。
メディアは世論を誘導できると思っています。
朝日の椿事件、毎日新聞の大阪都構想破棄への誘導、NHKの軍艦島レポートなど、これらの左翼メディアのミスリードには明らかな悪意が感じられます。
朝日新聞、毎日新聞、NHKの「言論の自由」には「ねつ造記事」も含まれるのでしょうか。
「右向け右!」となりつつある昨今、左まきテレビ(TBS・テレ朝・NHK)をのぞいてみるのも面白いものです。
下手なお笑い番組(フジ)よりよっぽど笑えます。
最近の若者はネットで稼ぎ、それを元手に株式投資で増やすパターンの方々が見受けられますがうらやましい限りです。ジョージソロス気分でしょうが危うさもあります。
現在はコロナ対策のため世界中の中央銀行が通貨供給量をジャブジャブ増やしています。金余り現象です。仮想通貨、金(ゴールド)、株式いずれも高騰しています。
実体経済と株価が乖離しています。ご注意を。
次回のブログからはこれからの10年(2021~2030)を、5G、AI、医療制度、マイナンバーカード、支出税、ベーシック・インカムなどについて明るく、能天気に考えてみようと思います。